7-1. 「プールを始めよう」と言う前に
(2018/6/11。2021/6/2全面改訂)(取消線の部分は、記事を復活させたらリンクを戻します。)

★新型コロナウイルス感染症を理由にプールを中止する必要は、未就学児施設の場合、ないと考えられます(更衣室がなく、日常が濃厚接触だから)。この件については、厚生労働省のQ&A(2021/3/29、掛札の注釈入)の問16をご覧ください。


あなたはプール水死の責任を負えますか?

 まず結論です。施設や組織の長(園長、理事長など)に「万が一の事態が起きた時、自分が責任をとる」「自分で責任をとれる」という決意がないのであれば、プール活動(※)はおやめになることをお勧めします。

 まず、プール活動で子どもが絶対に死なないよう保証することはできません。水は、おとなであってもそこに数分、顔をつけていたら死ぬ環境です。泳げるおとなでも水死(※※)します。プールの中に子どもが一人しかいなくても、誰も見ていなければ亡くなります(2012年、茨城県。書類送検・損害賠償)。プロのライフセーバーであっても、水の中に沈んでいる人形を確実に見つけることはできません(7-3)。未就学児施設の決して大きくないプールでも、沈んでいる子どもに気づけない場合があること、数分間、目を離している間に子どもが死亡、溺水することは、近年のプール死亡事例からはっきりしています(2011年:神奈川県大和市、2012年:茨城県五霞町、2014年:京都市、2017年:さいたま市。2016年には栃木県那須塩原市で意識不明の重体)。

 プール活動で、預かっている子どもに万が一の事態が起きた時、責任を負うのは施設長と監視をしていた(しているはずだった)職員です。自治体は責任を負いません。法人や企業も責任を負わない(負えない)でしょう。保護者ももちろん責任を負いません。「園でプール活動をするのはあたりまえ」という意識を支えている社会全体も、「園/職員が悪かった」と言うだけ。とにかく、施設長と監視者の責任になるのです。法的には責任を負わずに済んだとしても、心には傷が残りかねません。施設長と監視者、さらに周囲の職員が残りの一生、「なぜ、あの時に私(たち)は…」と思って(思わされて)生きていかざるを得ないのです(※※※)。

 ですから、「万が一の時に責任を負うことはできない」「職員にその責任を負わせるわけにはいかない」と、まず施設長がお思いになるのであれば、プール活動はやめてください。やめていいのです。子どもの命のために、施設長と職員の心のために。自治体や上層部や保護者に「プール活動をしろ」「するのがあたりまえだ」と言われたら、「万が一のことが起きた時、私(たち)は責任を負いきれません」とだけ答えてください。それでも何か言われるのであれば、こう尋ねてください、「では、あなたが責任をとってくださいますか?」。これに対して「自分が責任をとる」という方がもしもいたなら、その方に監視係をしていただきましょう。

※ここで「プール活動」としているのは、「水をためて、その中に子どもが集団で入る活動」すべて。何センチであれ、水がたまった場所を設置し、そこに子どもが入っているのであれば「プール活動」と呼んでいます。たらいを使った水遊びや泥遊びが絶対に安全だとは言いませんが、プール活動とは一線を画しています。余談ですが、「排泄が自立していない子ども」を他児と水に入れてはいけません(厚労省の「保育所における感染症対策ガイドライン 2018年改訂版」30ページ)。
※※「溺死」と言わず「水死」と言っている理由は、2-2の「睡眠中、プール活動中は『息ができない』ではない」。
※※※家庭の不慮の事故で子どもが亡くなった時、「私が~していれば」と保護者が悩み、鬱状態などになることは少なくないそうです。また、家族や周囲に「あなたが~していれば」と責められることも少なくないそうです。本来、子どもが事故死した時、保護者は心のケアの対象になるべきなのですが、そのシステムもないのが日本社会です。では、園で、不慮の事故による子どもの死亡が起きたら? 職員の心をケアするシステムはまったくなく、「責任」ばかりがのしかかります。「不慮の事故」は「犯罪」ではないのですが、日本はその線引きを明確にしていません。


プール活動は、「リスクを上げる」活動

 2-2に書いた通り、窒息(誤嚥や絞扼)、睡眠中、プール活動、いずれも発生したら一刻を争います。その点では同じです。けれども、誤嚥窒息は「明らかに危険なモノを使わない、食事に出さない」ことで発生リスクを下げられます。睡眠中は、「あおむけ寝に寝かしつける。顔のまわりに布類を置かない。口の中に何も入っていない」などの保障をすることで発生リスクを下げることができます。死亡リスク以前に、発生リスクを下げられるのです。

 ところがプール活動は、おとなでもそこに数分間つけておいたら確実に亡くなる環境に、子どもを何人も一緒に入れる活動です。つまり、活動自体が「事故の発生リスクを上げる」もの。それも、睡眠や食事のように生き物にとって不可欠な価値のある活動ではなく、「リスクを上げて、わざわざする活動」です。

 そうすると、死亡リスクを下げる方法、すなわち睡眠時の「睡眠チェック」にあたる「監視」だけがプール活動において子どもの命を守る行動になります。では、見ていれば子どもの命を確実に守れるのか。カナダのライフセーバーたちは「無理だ」と主張するために、自分たちで実験をしました(7-3)。水深にかかわらず、水の中というのは見づらいのです。日本でも、毎年数人の子どもが公共プールで亡くなっています(報道されるものだけでも)。資格を持ったライフセーバーが必ずいて監視をしているプールで、です。

 まず、プール活動というのは、子どもの死亡リスクを上げる活動なのだということを認識してください。


監視は「私がします!」と言う人だけがする

 未就学児施設だけでなく、日本社会のあらゆる場所で「見守る、気をつける、注意する」という言葉が使われます。でも、人間の脳は、見守ることも気をつけることも注意することもできません。人間の脳はそもそも、「つい、うっかり、ぼんやりで、めんどくさい」+「たいした問題は起きないはず(正常性バイアス、Normacy bias)」+「私(たち)は大丈夫(楽観バイアス、Optimistic bias)」の臓器なのです(※)

 そうすると、具体的な監視の行動が必要になります。まず、プール活動は「排泄が自立している子どもたち」が対象ですから、ほぼ、(3歳、)4歳、5歳児クラスになります。国の配置基準では、指導と監視を置ける職員数に足りません。仮に職員が2人いたとしても、2人でプールをするのはきわめて困難。たとえば、「トイレに行きたい!」と言う子ども、そこらに足をぶつけて泣いている子どもをみる3人めが必要です。こうした役割を監視係がしていたのでは、「目を離す」時間ができてしまいます。おとなの数を増やすため、プールに入る子どもの人数を増やせば、そのぶん異常に気づきにくくなります(下のゲーム)。 さらに、監視者は子ども一人ひとりに自分の意識を明確に向けるため、指差し声出し確認(リンク未)をする必要があります。暑い中でこれを続けなければいけないのです。決して容易な行動ではありません。そして、監視は「ただ、そこに立って見ていればいい」ではありません。動きまわる子ども一人ひとりが生きていることを、水という見えにくい環境の中で確認し続ける行動です。ですから…、

 プール活動自体の重大性と監視という役割の重大性を理解し、「私がします」と言う人だけが、監視を担当してください。

 「プールの監視は重大だから、したくない人はしなくていいよ」ではダメです。日本文化は(東アジア共通だと思いますが)、「できない」「したくない」「やらない」を言いにくい文化です。それも、下の立場の人、年齢の若い人が「できない」「したくない」「やらない」を上に向かって言えない文化です。だから、「したくない人、言って」では誰も手を挙げられません。

 そうではなく、「こういうことで、私は万が一の時に施設長としての責任をとる気があるけれども、みんなの中で『私も監視をします』という人はいる?」と訊かなくてはいけないのです。もちろん、プール活動をすると決めたのであれば、施設長がまず手を挙げるのが当然です。施設長が率先して監視をするべきです。でも、「『監視をします』と手を挙げる」も難しいかもしれません。集団のプレッシャーが働いて、本当はいやだけど「やります…」と手を挙げざるをえない場合も、この文化では多々あるからです。では、どうするか。プレッシャーがゼロになるわけではありませんが、たとえば「明後日までに、『監視をする』という人は自分で名前を書いてこの箱に入れておいて」と、保護者のご意見箱のようなものを職員用トイレ(入れていることが誰にも見えない場所)あたりに用意することぐらいでしょうか。

 そして、誰も「監視をする」と申し出ず、あるいは、施設長等から見て明らかに「この職員に監視をさせることはできない」という人しか申し出てこなかったのであれば…。答えは明らかです。後者の例はいろいろな理由があると思いますが、監視行動自体、誰にでもできるものではありませんから、「誰でもいいから、そこに立っていてくれればいい」という考えはきわめて危険です。

 さらに、「監視をします」と言った職員が担当するプール活動の日であっても、体調が悪い、注意力が落ちているといった時には「今日は監視できません。プールを中止してください」と言える保障が必要です。逆に「私しか監視者はいないのだから」と無理をして監視をし、万が一の事態が起きた場合には…。それどころか、周囲が「大丈夫、見てるだけだから」「できるでしょ」と言ってしまって万が一の事態が起きた場合には…。でも、この文化は「今日はできません」が言えない文化です。そして、そもそも人間はこれまで続けてきたことをやめるのが苦手(例:運動会の組体操)、計画したことを中止するのが苦手なのです(例:気象警報が出ているにもかかわらず、行事等を強行して深刻事故につながるケース)(※※)。

※脳は常に働いているので、すきあらば別のことを考え、別の所に注意を向けようとします(集中しすぎていたら襲ってくる猛獣に気づけませんから、注意散漫なのは生き物としては当然)。そして、別のことを考えている時、脳には「今、別のことを考えてしまっている」という認識ができません。ですから、「ぼんやりしている(別のことを考えている)」時に「今、自分はぼんやりしている」とは気づけないのです。
※※人間(生き物)は基本的に変化を嫌い、変化が起こると「前のほうが良かった」と言いがちな認知の歪みを脳に持っています(ステイタス・クオ・バイアス、status quo bias)。もちろん、時間が経てば、変化が起きたこと自体を忘れて慣れるのですが…)。


「私に責任はありません」と言いますか?

 これは2011年、神奈川県大和市の幼稚園で起きたプール死亡事故で明らかになった問題です。その場で監視をしているはずだった新任教諭と園長が書類送検されましたが、園長は裁判中、「自分は責任を果たした」と主張して無罪となり、教諭は有罪となりました。その後の賠償請求では、園長の責任もあるとされていますが。

 職員が意図的な暴力を子どもにふるったというのであれば、園長が「私に責任はない」と言うのはある程度、理解できるかもしれません。けれども、不慮の事故で「私に責任はない」と言う施設長、そのような施設長の下で誰が働きたいと思うでしょうか。そして、園長ですら責任を免れ、その場にいた職員だけの責任になる。これが今の社会の現実なのだということを明確に理解してください。保護者でもなく、自治体でもなく、法人や企業の上層部でもなく、場合によっては施設長ですらなく、現場で監視をする職員が「自分たちが今夏、プールをしない」「今日、プールをしない」と決めるべきです。「きっと大丈夫」を言うのは簡単です。でも、深刻な結果(死亡や低酸素脳症)が起きたら、その気軽な「大丈夫」が一生の後悔につながります。

 ちなみに、2017年に起きたさいたま市のプール水死事故は、結果が違います。この事故では、園長に禁錮1年(執行猶予4年)、保育士に禁錮1年(執行猶予3年)が言い渡されています(地裁)。この事故は内閣府の事故予防ガイドライン(※)が出た後に起きたものでもあり、園長は当日夜の時点で自身の責任を認める発言をしています(園長は事故発生時、園にいなかったようですが)。

 たいていの場合、監視をしていなくても監視をしていても、深刻事故は起きません。これが「不慮の深刻事故」の怖いところでもあります。とても危険なことをしていれば必ず深刻な結果が起きるというなら、誰もしなくなるでしょう。でも、不慮の事故の世界では、とても危険なことをしていてもたいていは何も起きません。予防や対策をしていたらもっと起きないでしょう。そうすると、「予防や対策をしなくてもいいのではないか」と考えてしまう。でも、これまでどこかで起きている深刻事故は、必ずまたどこかで起きます。プール水死事故の場合、誰にいつ起きるかわかりません。そして、対策(監視)の効果は100%ではなく、起きた時の責任は重大です。園でプール活動をする義務はありません。つまり、「プール活動をしない」という選択肢は十分にあるのです。

※2016年3月31日に内閣府から出た「ガイドライン」には次のように書かれています(こちらの2ページ。掛札はこのガイドラインの検討委員の一人でした)。
・監視者は監視に専念する。
・十分な監視体制の確保ができない場合については、プール活動の中止も選択肢とする。
・時間的余裕をもってプール活動を行う。等


私たちの園はなぜ、プール活動をするのか

 以上を読んで「プール活動をやめる」という決断をする園はまずないのかもしれません。でも、これぐらい危険な活動なのだとわかって取り組むことが不可欠です。

 そして、「プール活動をする」と決める前に、なぜ、あなたの園ではプール活動をするのか。その理由を書き出してください。プール活動を、園で、集団ですることによってしか得られない価値、水遊びや泥遊び、シャワー等では得られない価値です。保護者が考える価値でもなく、小学校が考える価値でもなく、自治体が考える価値でもなく、あなたの園が考える具体的な、プール活動の価値です。死亡事故が起きた時に「私たちは、このような価値があると考えて、リスクも理解したうえでプール活動をしていました」と言える価値を、具体的にみんなで書き出してください。一方、皆さんが書き出した価値の反対側にあるリスクは、「子どもの死亡または(長期にわたるかもしれない)脳障害」「施設長と監視者の社会的責任」等です。

 価値とリスクの天秤は、どちらに傾いていますか? 価値がリスクよりも重いというのであれば、プール活動をなさるでしょう。この議論ができないまま、「プールはするもの」「やめようと言えない」で終わらせていいはずがありません。この議論をしてください。

 公立園でからよく聞くのは、価値の議論以前に「私(園長)はプールをやめたいけど、うちの園だけでやめるわけにはいかない。横並びじゃないと」です。死亡事故が起きた時に、「他の園がやめると言わなかったから、自治体がやめると言わなかったから、やめられませんでした」「他園がやめてくれたら、私もやめられたのに」と言うのでしょうか? 逆に、価値とリスクの天秤を考えることもなく、「他園がやめると言うから、私もやめる」と言うのもどうかとは思いますが。


「プールをやめます」と保護者に伝える場合

 「プールをやめます」と保護者に伝える方法は、きわめてシンプルです。こちらにひな型もあります。

・園におけるプールの死亡/溺水事故は少なくない。
・監視係を置くよう、国、自治体からも指示されているが、監視がいれば必ず子どもの命を守れるというわけではない。
・子どもの命を預かる立場として、未就学児施設でプール活動をする価値とリスクを考えた時、リスクのほうが大きいと考えざるを得ない。私たちは万が一の時、命の責任をとることはできない。
・プール活動をやめます。

 相手が保護者であれ自治体であれ、理屈を並べる必要はありません。「子どもたちの命にかかわることであり、私(たち)は責任を負いきれません」と言い続けてください。そうでしかないのですから。


プール活動をする場合、保護者に伝えるべきこと

 そして、プール活動をすると決めたのであれば、6月中旬の段階でこの手紙を保護者に出してください。保護者全員が手放しに、「プール事故なんて起きない。とにかく園でプールをして!」と言っているはずがありません。「うちの園はプール、大丈夫なのかな。監視はしているのかな」と思っている人が必ずいます。その人たちに「園はリスクをわかっています。無理はしません」と伝えるためです。一方、「とにかくプール活動をして」という保護者に「園はリスクをわかっています。保護者が何をおっしゃろうと無理はしません」と伝えるためです。

 …考えてみてください。「うちの園、監視を置いているのかな。大丈夫かな」と思っている親と、「とにかくプールに入れて!」と思っている親、どちらが園にはっきり言ってくるでしょう? そして、園としては、どちらのタイプの保護者を園の強い味方にしたいと思いますか? 「文句を言われるのがいやだから」という理由でプールをすべきではないのは、明らかです。

 事前にこのように説明しておいてももちろん、「どうしてプール活動が減ったの?」「なぜ、今日はプールに入れてくれなかったの?」と尋ねてくる保護者はいるでしょう。その時は、「先日お渡ししたお手紙の通りです。お子さんたちの命が一番大切ですから」「体制をゆるめてしまって、取り返しのつかないことにはしたくありませんから」とひたすら伝え続けましょう。そこで突拍子のない説明をして信頼関係を壊さないために、この手紙を渡しているのですから、よけいな説明をする必要はありません。

 保育者の中には、保護者との関係が壊れるのではないかと恐れて、つい「わかりました」と言ってしまう人やお茶を濁してしまう人がいるようですが、ここでは許されません。全職員が同じ言い方で毅然と、でも柔らかい言い方で「これは子どもの命を守るための決まりですから」「お子さんの命が第一ですから」と伝え続けてください。職員によって言うことが違う、それ自体が保護者との関係を壊します。もちろん、なかには自治体に報告する保護者もいると思いますが、自治体が「保護者の言う通りにして、もっとプールに入れろ」と園に言うでしょうか? 言うとしたら、その自治体の安全意識が問題です。

 もうひとつ、保護者や小学校が「泳げるようにして」と要求する場合もあるようです。「ライフセーバーもプロのスイミング・コーチもいませんが、私たちの園では、子どもたちが泳げるようになるまで取り組みます」という園があってもかまわないのでしょう、保護者がそれを歓迎して、最悪の場合の死亡リスクも受け入れているのであれば(だから、価値とリスクを明らかにしたリスク・コミュニケーションが不可欠なのです)。ただ、事前に「リスクはわかっている。それでも泳がせてください」と全員の保護者が言ったとしても、子どもが亡くなったり、脳に重い障害が残ったりした時に、保護者がその結果を受け入れるかどうかは、当然、別の話です。

 また、この手紙については(特に公立や公設民営園から)「夏期は職員が休暇をとる時期とも重なる、とは書けない」というご意見をいただきました。「配置基準割れをする」と言っているわけではありません。「職員が夏休みをとる」という事実をなぜ言ってはいけないのか、理解に苦しむところです。監視という重責を負う立場に立つ人の夏休みもあるでしょうし、急に体調が悪くなることもあるからです。書けないなら書かなくてもいいのでしょうけれど、本来は「監視役はただ立っていればいいわけではない」「誰でもできるわけではない」「保育園や幼稚園では、その責任をわかって取り組んでいるのだから、保護者も理解して」ということも、あわせて明確に保護者に伝えていくべきでしょう。

 もうひとつ、なぜ、一度にプールに入れる子どもの数を減らさなければならないか。「ただ、プールの外に立って見ているだけ」では監視行動にはならないからです。指差し声出し確認をした時に、最初の子どもから最後の子どもまでの確認に10分もそれ以上もかかるなら、最初の子どもが沈んでいることに気づけない可能性があります。だから、一度にプールに入れる子どもの数は減らさなければならないのです。

(以前のサイトでは、プール活動をする際の監視方法等のポイントについても掲載していました。けれども、「こうすれば必ず見つけられる」という方法はなく、「ここに書いてある通りにしていたのに、子どもが死んでしまった」と言われるリスクを考えると、そのような内容を記載することは危険であると考え、すべて削除しました。―2021年6月)


「監視をしていた」という証拠を残すのは難しい

 プール活動をする以上、監視以外には子どもの命を守る方法がない。監視をしていたかいなかったかが後で問われる。ということは、「絶え間なく監視をしていた」という証拠を残す必要があります。ビデオを撮ってください。ホームビデオでかまいません、監視者が確実に写る位置にホームビデオを設置し、監視者が監視行動をし続けていたという証拠を残すのです(公共プールでは必ずしています)。プールの中も写るようにする? それがいかに難しいかは、7-2の最初のニュース動画2つをご覧ください。

 ビデオを撮っていても、そこに監視者の視線は写りません。深刻事故が起きた時に「監視者が立ってはいるが、本当に見ていたのか」という議論になる可能性をゼロにすることはできないということも理解してください。


水遊びでも監視係は必要

 排泄が自立していない子どもを他児と水に入れてはいけないわけですから、3歳児以下は水遊びということになります。水遊びでも、全体を見ている監視係は必要です。

 未満児の場合、子どもあたりの保育者の数は多くなります。そうすると、人間は「誰かが見守っていてくれるだろう」という錯覚に陥ります。また、未満児の水遊びについている職員は、どうしてもしゃがんだ姿勢やかがみこんだ姿勢になるため、視野が狭まってしまいます。視野からはずれた子どもがその場から離れたり、別の所へ行ってしまったりしても見えにくいのです。水遊びの状況を見ていると、一人で歩き回っている子どもが必ずいます。それでも園庭から出られない環境、職員がついている場所以外には水がないという状況ならいいのですが…。全体を見る監視係はいたほうが安全です。


 最後にひと言。この原稿を書いている時(2018年6月)、主要新聞で園のプールの安全に関する記事が出ました。とりたてて特徴のある記事ではありません。「プール事故が起きている、こういうことをして安全を確保しようとしている園がある、調査でこういう結果になってる…」。記事の末尾にこの編集委員はこう書いています。
 「人数確保に工夫をし、穴のない監視に努めてほしい。」
 暑い夏の日、子どもたちが楽しみにしているからと、必死になってプール活動をしている保育者の苦労、「命を守らなくては」と真っ黒に日焼けして監視をしている園長や主任や看護師の苦労など、まるでないかのような、「監視など簡単にできるでしょう? なんでできないわけ?」とでも言いたげな、上から見下ろした偉そうな言い方。プール死亡事故が起きた時に、こういう人たちに「ああでもない、こうでもない」と報道され、分析され、批判され、保育者や施設長は二重にも三重にも傷つけられる。これが今の日本なのです。


おまけ:「うわの空になる自分」を体験する

 このゲームは、スマートフォンではできません。ここから先は、パソコンでご覧ください。

 このゲームの目的は、ゲームを繰り返して「注意ができるようになること」ではなく、「うわの空になっている自分」「気づかない自分」に気づくこと、です。動物の数をいろいろ変えてみて、「見守れなさ」を疑似体験してみてください。水の中で亡くなった場合、溺れに至ったきっかけ(滑った? てんかんかなにかの発作?等)は後で調べてもほぼわかりません。ということは、最終的な溺死を防ぐために、早くみつけて早く救急車を呼び、心肺蘇生をする以外にないのです。

 このゲームは注意の研究分野のひとつ、「視れども見えず」(inattentional blindness)のさまざまな実験や理論をもとにしています。長年にわたって行われてきた一連の実験から、「視れども見えず」は、誰にでも起こることがわかっています。性別、性格、職業などとは一切、関係ありません。最初にゲームをした時は、すぐにわかって「やった!」と思うかもしれませんが、次はまったく気づかないかもしれません。このゲームをすることで「私はできる」感を育てたいのなら、最初からしないでください。このゲームの目的はあくまでも、「あ、一瞬、他のことを考えてた!」「おっと、わからなかった!」という自分自身に気づくことです。「うわの空になる自分」「気づけない自分」を意識できることが、安全行動の第一歩。

 ゲームは、下のリンクをクリックすると、別ウインドウで開きます。ゲーム自体のリンクをブログやウェブサイト、Facebook、Twitterなどに貼ることは絶対におやめください(このゲームは著作権フリーではありません)。リンクを貼る時は、必ずこのページのリンクを貼ってください。

 ゲームの画面を開く(パソコンを使ってください。別のウインドウで開きます)
 (ゲームを作ってくださったのは、sssfactoryさんです。)

内容と使い方
1)このゲームでは、動き回る動物たちを見守ります。「担任ではない保育者(=顔と名前が一致していない)が、複数の子どもを見守っている状況」をもとにして考えました(このゲームと現実がどれくらい違うか、という議論はやめてくださいね。そのために作ったのではありませんから…)。
2)途中で消える動物、および/または、途中でまったく動かなくなる動物がいます。最初の画面の右上ボタンで、消える動物の数(ゼロから2)、まったく動かなくなる動物の有無を設定できます。
3)動物の数、動き回る速度も、最初の画面の右上ボタンで設定してください。
4)2と3の後、「設定」ボタンを押すと、登場する動物たちが整列します。動物を覚えようとしてみてください。
5)「開始」ボタンを押すと、動物たちが動き始めます。消えたり、完全に止まったりは、最初の数分間は起こりませんが、いつ起こるかはわかりませんのでしっかり見守っていてください。しばらく止まってまた動き出す動物もいます。動物、動き、消えるタイミング、止まるタイミングは乱数でプログラムされていますので、毎回違います。
6)「消えた」「完全に止まった、動かない」と思ったら、「止まった」「消えた」ボタンをクリックしてください。
7)最低10分間は見守っていてください。その間に、「あ、うわの空になったぞ、自分」「あ、今、別のことを考えていて、見ていなかった!」と気づく、「長いなあ」「まだかなあ」「わかんないなあ」…と頭の中で考えている自分に気づいてください(ここが大事です!)。
8)「終了」ボタンを押すと、あなたが「止まった」「消えた」ボタンを押した時間と、実際に止まった時間、消えた時間が表示されます。途中で消えた動物が再表示されて、点滅します。
9)もう一度、最初から始めるには、コンピュータの「F5」ボタンを押します。
※ 動作しない場合は、使っているブラウザのjavascript設定が「有効」になっていることを確認してください。

 このゲームでは、「消えるぞ、消えるぞ」「止まるぞ」と思って見ていますから、少なめの数であれば、かなり早く気づくことができるかもしれません。けれども、プール活動中はもともと、「見えなくなっているぞ」「動かなくなっているぞ」と思って見ていませんから、「視れども見えず」はより起きやすくなります。プールでも、「見えなくなっている子がいるはずだ」「動かない子どもはどこだ」と監視することがきわめて重要です。そして、なにより水の中は、このゲームよりもずっと見づらいのです。