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A-1. 「価値」と「リスク」:保育における真のリスク・マネジメント

(2019年1月6日)

●「リスク」の大きな定義:良いこともリスク
●説明のための寄り道:株か定期預金か
●保育と子育てに置き換えると?
●「リスク・マネジメント=園を安全する」ではない
●価値が上がればリスクは上がる。ケガも増える?
●無駄なケガ、学びになるケガ
●おまけ:線引きを決めてみるワーク
●おまけのおまけ:クラスや園で話しあいをする時のコツ3つ
 (飛ばし読みを想定していないので、見出しにリンクしていません)



 人間の認知(ものの見方)をつくるひとつの原因は、言葉です(※)。「〇〇ちゃんにケガをさせてしまって申し訳ありません。二度と起きないように、この活動を…」、数十年間、繰り返されてきたこの言葉が今の保育・教育、子育てを縛る一因になっていることは(社会認知心理学の観点から見れば)疑いがないでしょう。園は子どもにケガを「させて」はいません。そして、ケガは確率的なできごとなので、「二度と」は決して言えません。誤った因果関係の解釈と不可能な約束が、「保育園(保育士)が子どもにケガをさせ(続け)ている」という認知をつくってきたのです(全身性のできごととその結果のケガの軽重が直結しない件は、6-1)。

 園見学の時から、「私たちの園の活動として、このようなケガ、このようなできごとは織り込み済みです。これが私たちの園の価値ですから」と言えるようにしていく。そのためには、子ども(園)の活動の価値とリスクを園長と職員が明確に理解し、判断・行動できるようにし、それを保護者にも伝える。もし、活動の価値に付随するリスクを保護者が受け入れられないなら、子どもを自分の園に(または、保育園という集団の場に)入園させないよう伝える以外にありません。

 園見学の段階で、入園段階で、毎年度の始まりに、さらに日常、折にふれて保護者に伝えるべきは、価値とリスク(主にケガ)の話だけではありません。子どもを集団に預ける側(保護者)の責任も伝え続けます。そして、集団の中だからこそ見える子どもの姿を保護者に伝えることで「子どもの最善の利益」を保障するという園の態度も、です。「保護者の最善の利益」を保育園、こども園、幼稚園)を優先させていくなら、子どもたちは育ちませんから(以下、「保育園」「保育士」を使います)。

 では、まず前提となる「価値とリスク」の基本です。以下の内容は、保育・教育活動の価値に付随しがちで、その中には子どもにとって学びとなるものもある「ケガ」を取り上げています。子どもにとって学びが(ほぼ)なく、命を容易に奪うできごと(熱中症を含む災害全般、息ができないできごと、睡眠中の異常、水の中の異常、食物アレルギーなど)については、安全に関するトピックスの各項目をお読みください。

 このシリーズ(A-1~A-3)の一部をまとめた発表スライド(保育保健学会、2018年10月14日)はこちらです。
※『保育現場の「深刻事故」対応ハンドブック』27ページ~。


「リスク」の大きな定義:良いこともリスク

 「リスク」とは何でしょうか。「危険」? 「ヒヤリとすること」?

 「リスク」の定義は、業界によって異なります。私(掛札)がもともといる「安全」の世界では「価値が失われる可能性」(欧米の安全関係の省庁等が使っている定義)とし、命や財産、信頼といった価値が失われる可能性を下げることを目的にしています。同じ安全であっても、業界が変わればリスクは変わります。

 でも、安全の世界で言う「リスク」は、リスクの片面しか見ていません。実は、リスクの定義にはもっと大きなものがあるのです。それは「目的に対する不確かさの影響」、国際規格である「ISO31000:2009 リスクマネジメント」に書かれている定義です(施設長や栄養士、調理師、看護師の方たちは、衛生の分野で別のISOをよくご存知でしょう)。

 「目的に対する不確かさの影響」? なんだかわからない説明です。ISO31000の解説書には「影響とは、期待されていることから、好ましい方向及び/又は好ましくない方向に乖離(かいり)することをいう」と、よけいにわからない話が書いてあります。 ??? 大丈夫。安心してください。このハテナから、保育と子育ての核心へ行きつくには数分もかかりませんから。

説明のための寄り道:株か定期預金か

 では数分、寄り道をします。「株はリスクが大きい(高い)」、株をしたことがあってもなくても、誰でもこう思っているでしょう。「得をするよと言われて買っても、大損をする場合がある。だから、リスクが大きい」、皆さん、そうおっしゃるはずです。得をする(期待)はずだったのに、結果は好ましくない方向にずれてしまって(=乖離して)大損をする、イコール、株はリスクが大きい。ISOの一見、意味不明な定義をあてはめてもわかることです。

 実は、リスクにはもうひとつの面があるのです。

 「会社をつくったから株買って。安いよ。20年後に儲かるから」「え~、儲かるわけないじゃん。でも…、友達だから買うよ、わかった。ドブに捨てたと思って買う」…、20年後、「儲かってるね、会社。え、あれ? そうだ、株、持ってたよね、私。うわ~。大儲け!!!」(20年間、気づかないはずはありませんが)。これも「リスク」なのです。つまり、大金をドブに捨てた(期待)はずだったのに、結果が好ましい方向にずれて(=乖離して)大儲けをする、だから、株はリスクが大きいのです。

 はい、おわかりの通り、リスクの大きさとは「大きな損をするかどうか」ではありません。株は不確かさが大きいから、期待に反して大きな損をすることもあるけれども、予想(期待)に反して大きな得をすることもある、この「不確かさ」の大きさと、不確かさによる「結果」の大きさの両側(損だけでなく得も)を本来、「リスク」と言うのです。

 もっとわかりやすくしましょう。今度は定期預金です。「定期預金はリスクが小さい」と誰もが知っています。「預けたお金が減ってしまうことは(まず)ない」からです。一方、定期預金は得も小さい。なぜか。定期預金は不確かさが小さい商品なので、損の方向も得の方向も期待から大きくはずれることがありません。というか、定期預金の金利は決まっているので、期待以上の得をすることは絶対にありえません。

 株と定期預金のリスクの違いは、単純な「大損をするか、損をしないか」ではなく、「不確かさの大きさ」だという点がおわかりいただけたでしょうか? そして、不確かさが大きい株は大損をする可能性も大きいけれども、大儲けをする可能性も大きいから、「リスクが大きい」。不確かさが小さい定期預金は、損もしないけれどもたいした得もしないから、「リスクが小さい」。そういうことです。

 株と定期預金をリスクの大きさの違いだけで考えたのでは、保育と子育てにつながりません。両者にはもっと重大な違いがあります。

 株を買う人は、なぜ株を買うのでしょう? 「損をする可能性はあるけれども、それを承知で、でも、できる限り大損はしないようにしっかり考えて、儲けるために(損をするかもしれない)リスクを積極的、かつ意識的にとる」のです。損をしたいから株を買う人はいません。どんな株でもいいと言って買う人もいません。儲けるために損を覚悟で、でも、大損はしないように考えるわけです。「儲けるために」…、株を買うのは得(の側のリスク)を大きくしようとする態度です。

 一方、定期預金にお金を預ける人は? 「ちょっとだけ得をしたいから」という人はいません。「損をしたくないから」です。つまり、定期預金を買うのは、損(の側のリスク)を小さくしようとする態度です。

 株と定期預金を単純に比べれば、不確かさとその影響の大きさの違いだけなのですが、ある人が株を選ぶか定期預金を選ぶか、その理由は単なるリスクの大きさの違いではありません。株を選ぶか、定期預金を選ぶかは、質として方向がまったく違うのです(余談:株と定期預金の間には、リスクの大きさが異なるさまざまな金融商品があります。そして、どの商品/リスクの段階までを「定期預金」的に認識するか、どこからを「株」的に認識するかは、人によってまったく違います。リスク認知は一人ひとり異なるからです。同じリスク認知の人は世の中に一人としていません)。

保育と子育てに置き換えると?

 では、保育と子育てを考えましょう。株と定期預金の話をそのまま横すべりさせるだけです。

 「試したいこと、やってみたいこと、なんでもやっていいよ!」「でも、それは人に向けちゃダメ。刺さったら痛いから。自分で自分に刺してごらん、ほら、痛いでしょ? だから、人に向けちゃいけないんだよ」…。子どもは「不確かさ」がとても大きな存在です。だから、試してみればみるほど、繰り返していけばいくほど、探していけばいくほど、いろいろなことができるようになり、興味を持つようになり、次の発見と可能性につながっていきます。でも、いろいろ試して、何度も繰り返して、なんでも掘り返して解体して組み立て直してみれば、当然、痛い思いもします、大きいケガもします、後に残るような結果に至ることさえあるかもしれません。最悪のことにはならないようにしつつ、他人を傷つけることがないようにもしつつ、なんでも試せる、なんにでも興味を持つ子どもを育てる。これが「株のような」子どもの育ちです。

 一方…。「危ないから、ダメ」「それ、さわらないで」「やめて、汚いから」「動かない! 座ってて」「黙ってて」「はい、スマホ、見てて」…。子どもはケガひとつしないかもしれません(実際にはします)。でも、間違いなく、育ちません(脳もからだも)。これが「定期預金のような」子どもの育ちです(余談:保育園では、まださすがに「スマホで保育」にはなっていないようですが、そのうち「教育用コンテンツ」なるものが効果の証明もなく普及し始めたら、どうなるかわかりません。「子どもが静かに、おとなの言うことを聞くこと」を良しとしている園もありますし、そういう保育士も保護者もいますから。デジタル機器の濫用が成長発達に及ぼす害は長期にわたるため、証明も容易ではありません。でも、それがデータで証明された時には〔10~20年後には間違いなく証明されるでしょう〕手遅れで、元・子どもたちが脳とからだに受けた悪影響をおとなになった時点で元に戻すことはできないのです。)

 今、私たちが迫られている選択は明らかです。「株のように」ケガのようなリスクも積極的にとりながら、子どもという存在がもつ大きな不確かさを活かし、一人ひとりの子どもが可能性の100%以上に育つ(肯定的な)リスクを選ぶのか。それとも、「定期預金のように」目先のケガやおとなにとって手のかかる部分すらも損とみなして避け、子どもが本来の可能性よりずっと低い程度にしか育ちきらなくても「(おとなの都合として)損をしなかったのだからよかった」と考えるのか。「子どもにケガをさせないで」と言う保護者が増え、「ダメ」「やめて」の保育が広がるのは、誰の利益のためなのか。それは、子どもの最善の利益に反しないのか。「リスク」のもっとも大きな定義に立ち返る必要があるのです。

「リスク・マネジメント=園を安全する」ではない

 保育の世界で「リスク・マネジメント」と言うと、いかに安全にするか、いかにケガを減らすかという話だと考える方が大半だと思います。私自身も最初の拙著(『乳幼児の事故予防:保育者のためのリスク・マネジメント』、2012)ではそのような見方をしていました。確かに、安全の世界では「不確かさから生じる良い結果の乖離」をそもそも考えに入れないので、安全におけるリスク・マネジメントなら、それで十分です。でも、子どもの「育ち」という側面を考えるなら、安全の狭い定義ではまったく不十分。ここまで説明してきたもっとも大きな国際的定義、つまり社会全体や企業活動を動かしているリスク・マネジメントの定義をもってきて取り組む必要があるわけです。

 ISO31000:2009に定義されている「リスク・マネジメント」は、「リスクについて、組織を指揮統制するための調整された活動」です。保育園に置き換えれば、「子どもというリスク(不確かさ)の大きい存在の育ちについて、リスク(得の側も損の側も)を明確に見きわめ、園がおとなと子どもの集団として組織的に取り組んでいく方向を決め、必要に応じて変更や改善を加えていく継続的な過程」がリスク・マネジメントです。リスク・マネジメントは、一度決めて額に入れて飾っておくものではなく、常に変化する過程です(※)。

 数年前から、私がこの点をもう少しさらっと説明するために使ってきたのが、下の絵です。リスク・マネジメントは簡単に言えば、「価値とリスクの天秤」のバランスをとり続ける過程そのもの(※※)ですが、不確かさが大きくなればなるほど、価値とリスクの間の線引きはぼんやりしてきます。子どもという不確かさが大きな存在は、いろいろ試せば試すほどできるようになる(価値)けれども、ケガなどの可能性(マイナスのリスク)も高くなる。でも、「まだ無理かな…。でも、やってみよう!」と思って試してみたらできた!というプラスのリスク(=実は、価値)こそが子どもの育ちにとっては不可欠なのです。


※ISO31000:2009の中には、たとえば次のように書かれています。
「リスクマネジメントは、価値を創造し、保護する。」:世の中からリスクをなくすことではない。
「リスクマネジメントは、体系的かつ組織的で、時宜を得たものである。」:行きあたりばったりの、硬直したものではない。
「リスクマネジメントは、組織が置かれている外部及び内部の状況、並びにリスク特徴と整合する。」:社会全体の認知(報道や判例など)と認知の変化によって変わるものであり、リスクによって異なる(安全に関するトピックスの各項)。

※※「リスク・マネジメント=価値とリスクのバランス」と言うと漠然とした話に聞こえますが、私たちは毎日、それこそ数分に1回ぐらいの割合でこれをしているのです。たとえば、「A鉄道で行こうかな、B鉄道で行こうかな。Aは早いけど、今日は風が強いから途中で止まるかも。早く出てBで行くほうが確実」。あるいは、「レタスにしようか、キャベツにしようか…。レタス、すごく安いな…。あ、でも私、明後日は家にいないんだ。レタスはすぐ悪くなっちゃうから、ちょっと高いけどキャベツにしよう」。リスク・マネジメントは日常生活の一部であり、時として「リスクをとって価値を大きくしよう」ともし、「損を最小にしよう」ともします。時々、立ち止まって「今、私はどんなリスク・マネジメントをした?」と考えてみてください。

価値が上がればリスクは上がる。ケガも増える?

 たとえば、年長児が木工に取り組む園もあります。縫い物をする園もあります。子どもたちが自分の「できること」を少しずつ広げていけるような園庭を意識的に作っている園もあります。いずれも子どもの価値が上がり、保育の価値が上がります。でも、価値が上がれば、リスクも必ず上がります(人間の活動の中に、「価値が上がってリスクが下がる」ものはありえませんし、「価値だけがあってリスクがない」ものもありえません)。では、リスクが上がれば、ケガなどを起こすできごとも増える?

 違います。価値が上がればリスクが上がるということと、実際のケガが増えることは必ずしもつながりません(ややこしい言い方をすれば、「価値」も「リスク」もあくまでも可能性=確率の話なので、ケガの発生数という実際の数とは直結しないのです。そして、ケガ自体も6-1に書いた通り、別の確率的要素に強く支配されています)。

 なぜか。たとえば、年長クラスが木工に取り組む小倉北ふれあい保育所(北九州市)の場合です。ノコギリをひくのも釘を打つのもナイフで木を削るのも、子どもにとって価値の高い活動です。ですが、年長の4月1日に「はい、じゃあ、1年間で棚を作ろう。道具はこれ。木はこれ。初めて見るものばかりだ。びっくりだね。がんばって!」と一式を渡す保育士がいるわけはありません。おとなでも方法は教わります。そうしなければ危ないだけでなく、もっとも効率的な方法は(たぶん)いつまでも学べないからです。子どもにももちろん、教えます。もっと小さい頃から、木工をしている年長さんを見て子どもたちは似たような動きを真似するでしょうし、保育士もそのような活動をさせるでしょう。実際に道具を渡したら、「これはこうやって使う、なぜかというと…」「これは絶対にしちゃいけない。なぜかというと…」、そして、少しずつ使い方を教えていきます。子どもたちも、ゆっくり試していきます。


(写真は小倉北ふれあい保育所提供)


 この背景に、とても大切な点があります。保育士は「ノコギリがひけるようになるのはすばらしい」(価値)とだけ思っているわけではありません。子どもがノコギリを使う以上、ここが危なくて、子どもがしやすい危険な行動はこれで、それはどういうふうに教えれば止められるか、止められなかった時に最悪の事態が起きるとすれば、それは〇〇だから、それを防ぐためには…。保育士は価値の裏側にあるリスクと、リスクを意識的に下げる方法を明確にわかっているはずです。これをわからずにしていたなら、それは保育ではありません。「頑張って! でも、危ないから気をつけて!」では、子どもは危険を自分で制御(コントロール)することもできず、学ぶこともできないのです。

 つまり、子どもの活動(育ち)の価値が上がるという事実を保育士が意識的にわかっているということは、それに伴うリスクも保育士が意識的かつ明確にわかっているということです。株の話を思い出してください。「損のリスクは承知で、でも大損はしないように考えて」するのが株投資です。「とにかくなんでも買ってみる」は、株投資ではありません。それと同じで、保育においても価値を上げることを考えるなら、価値とともに必ず上がるリスクを絶対に無視せず(=リスクを承知/覚悟のうえ)、明確に見、リスクが上がりすぎないよう意識的に制御(コントロール)する具体的な判断と行動が不可欠なのです(「具体的な判断と行動」とは、「気をつける」「見守る」「子どもに注意するよう声がけする」ではありません。「気をつける」「見守る」はそもそも人間の脳にはきわめて難しく、子どもに声をかけても最悪の事態はたいてい予防できません)。

 そして、そのように保育士が具体的に理解して、判断して、行動していれば…、無駄なケガは(ほぼ)起きません。なにより、子どもは「できるようになっていき」、「自分にとってできることと、まだ難しいことの線引きも理解していく」ので、無茶なことをしないでしょう。結果、無駄なケガを(ほぼ)しないのです。


 同じことは、外遊びでもあてはまります。私は山形県鶴岡市にある三瀬保育園の園内と園庭で、子ども一人ひとりが(1歳でも!)「今、この瞬間に自分がしたいこと、試してみたいこと」と「今、この瞬間(時点)に自分にできること、できないこと」の天秤をかなり注意深く測りながら遊んでいるのを目にして以来、こうした環境を子どもにつくることが不可欠だと考えるようになりました。子どもが少しずつ、自分のできることを広げていくことができ、その中で段階を追って達成感を感じることもできる環境です。

 実際のところ、こうした園庭環境(※)は、かつてあたりまえのようにあった裏山や土手を模したものとも言え、「ここの山の斜面は私、まだ登れないからこっちから登る」「今日は雨の後で滑るからこっちから」といった「自分」と「今」の判断は、本来、野山で遊んでいた(遊んでいる)子どもたちなら身につくはずなのです。でも、その環境と時間がなくなりつつある今…。お仕着せの遊具では、子どもは「自分」と「今」の「できる、できない」の判断を学ぶことができません。階段を昇れば簡単に高い所へ行けてしまうお仕着せの遊具では、この判断が身につかないだけでなく、「高さ」の判断をまだ知らない状態で登れてしまう子どもたちにとっては命の危険にもつながります。

※私は、拙訳『3000万語の格差:赤ちゃんの脳を育てる親と保育者の話しかけ』(明石書店)が子どもの脳を100%育てるためのきっかけになると考えています。一方、『子どもが自ら育つ園庭整備: 挑戦も安心も大切にする保育へ』(ひとなる書房)という本に書かれている内容が、子どものからだを100%育てるためのきっかけになると思います。興味のある方は、2冊あわせてご一読を。
 ただし、この「園庭」本の中で、安全の世界における「リスク」と「ハザード」の誤った定義(国土交通省、2014年)を用いている点だけは指摘させていただきます。安全の世界でリスクを定義するには「ハザード」という概念が必須であり、リスクとハザードの関係は正確に定義されています。正しい定義、誤った定義など、くわしくお知りになりたい方は拙著『子どもの「命」の守り方』(エイデル研究所、2015年)の67ページ以降をお読みください。

無駄なケガ、学びになるケガ

 小倉北ふれあい保育所の木工製作の例に戻りましょう。ノコギリや金づち、ナイフの使い方を順調に学び、できていくようになれば、子どもは無駄なケガを(ほぼ)しません。でも、学びのあるケガやドキリはします。ノコギリをひいていて、「ちょっとこっちに引っ張ってみようかな」…、ノコギリの刃が曲がってしまって怖かった! 釘を打っていて思わず自分の指を打ちそうなって、「あっ、あぶなかった!」(※)。どちらも無駄な経験ではありません。「先生の言う通りにするほうがいいんだ」「釘を打っている時は集中しなきゃ」、大事な学びです。痛みは気づきのきっかけになるだけでなく、次の時に「あの時は痛かったから…」と行動を思い出すきっかけにもなります(痛みには、効用もあるのです!)。

 自分たちの園、クラスでしている活動の価値と、活動に伴う(安全上の)リスクの天秤を明確に認識でき、「なぜ、この活動をするのか」「この活動にはこういったリスクがあるので、自分たちはここをこのように具体的にする」と言えること(園見学の保護者に説明できますか?)。言えるだけでなく、実際の判断と行動をできること。さらに、その活動に伴う「無駄なケガ」「無駄な危なさ」と「学びになるケガ」「学びになる危なさ」の線引きを、自分たちの園の価値とリスクの天秤に照らしあわせて明確にできること。これができなければ、園の理念や活動方針やカリキュラムが紙の上でどんなに立派であっても、実質を伴わないだけでなく、危険です。

 そして、こうした天秤や線引きは、(法人や自治体が同じであっても)園によって異なり、年度によって異なり、もっと言えば日によって異なります。なぜなら、園舎と園庭の環境がそれぞれ異なり、職員集団が異なり、子ども集団が異なり、今日と明日では子どもの状態が違うからです。大きな意味で「私たちの園のリスク・マネジメント」(方針)を決め、今年の私たちのクラスのリスク・マネジメント、今日の私たちのクラスのリスク・マネジメントを決めて、柔軟に判断・行動する。「リスク・マネジメント」はこう決めたからこう、という固定的なものではなく、上に書いた通り、「子どもというリスク(不確かさ)の大きい存在の育ちについて、リスク(得の側も損の側も)を明確に見きわめ、園がおとなと子どもの集団として(子どもが主体)組織的に取り組んでいく方向を決め、必要に応じて変更や改善を加えていく継続的な過程」なのです。

 言うまでもありませんが、「無駄なケガ」「学びになるケガ」という線引き以前に、「不適切な保育によるケガ(ケガになりそうだったできごと)」もあります。無駄なケガと似てはいますが、少し違います。布団庫のちょうつがいの所で子どもがしょっちゅう指をはさんでいるなら、これは「無駄なケガ」で、さっさとビニールシートで覆えば済むことです。一方、月齢に合わない活動をさせた、子どもには判断できない危険がある場所で遊ばせたなどは、ケガにつながってもおかしくない「不適切な保育」であり、ケガになれば「不適切な保育による無駄なケガ」です。自分がしている行動や言動が「保育として適切かどうか」、これは保育の経験者であれば、園の方針以前に判断できてしかるべきことだと思います。

 とはいえ、この社会の変化に伴い、子どもが集団の中で育つ以上、当然起こるケガ、偶発的に起こるケガも「不適切」とみなされるようになってきているのかもしれません(A-2にある判例のような事例)。となると、園としては「集団の中で当然、ケガは起きます」「子どもはできるようになっていきますが、その中でケガもします」と保護者に伝えることが不可欠になっていくのでしょう。

※当初、この例を「釘を打ちながら隣の子に声をかけて、指を打ってしまった」としていたのですが、原稿を読んだ同保育所の酒井初恵先生(夜間部主任)から、「その例はあまり考えられません。本当に真剣なんです。作業をしている時はあまりしゃべりませんし、子どもは自分でやろうと決めたことには真剣です」と修正していただきました。酒井初恵先生は、こちらの「保育の質」の研究にも関わってくださっています。

おまけ:線引きを決めてみるワーク

 「天秤、線引きと言われても…」。どの園でも、今すぐできるワークがあります。ぜひ、試して、続けてみてください。ただし、担任が持ち上がりではない場合、年度初めの数か月は難しいかもしれません。何年か続ければ、園全体の「天秤、線引き」が決まり、年度初めでも同じように考えられるようになっていくと思います。

 このワークを少しずつでも繰り返していけば、保育の内容について話しあう習慣をつけていくことができるでしょう。そして、むやみに「ケガをなくそう」と考えて保育を狭めていくのではなく、「自分(たち)の保育の質を上げよう」という前向きな見方に変わっていくはずです。ケガになったできごとやケガになりそうだったできごとは、自分たちの保育を見直す素材ですから。

1)自治体に提出した事故(受診)報告書、ヒヤリハットなどをクラスごとに分け、かみつき、ひっかき、ケンカ以外のケガのできごとを抜き出します。

2)クラスの保育担当者(※)で、それぞれの事例を読み、そのできごと(転ぶ、ぶつかる、落ちる、つまずく、滑る、刺す、切る、はさむ等)に至るまでの過程は、自分の園の保育として容認できることかどうか(=学びになるできごと? 子どもの経験として無駄? 保育としてそもそも適切?)を話しあってください。この時、できごとの結果(ケガ)が軽かった、重かったは考えに入れません(理由は6-1の2項め参照)。つまり、「骨折をしたのだから、これはダメだった」「ケガにならなかったからいい」と考えず、できごとの過程を自分たちの保育の質として考えるわけです。

3)月齢、発達段階、年度のいつ頃か、その子の特徴、他の子どもとの位置関係、保育者の位置関係なども考えます。
 例:「5月にここでつまずいたんだ。それからこの子、つまずいてないよね。新入園児だったし。だから、これは良い悪いじゃなくて、単に偶発的なできごとだったということで。」
「この場所では、10月になっても他の子もぶつかってるよ。そのうちぶつからなくなるって思ってたけど、今年はやっぱり環境を変えたほうがいいってことかな。試しに変えてみようか。」
「前の日も同じ遊びをしているよね…。この日、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃん、金曜日で機嫌が悪かったんじゃなかったっけ? うん、そうだった。『昨日はできたから』って考えないほうがよかったかも。」
 ですから、基本的には自分のクラスの今年のこと(持ち上がりなら、去年でも…記憶は薄れているでしょうけど)しか話すことができません。できごとの過程や背景を知らない主任や園長が推測で横槍を入れるのは禁止です。「線引きを決めること」そのものが重要なのではなく、担任たちで話しあうことそのものが大切なので。

4)話しあいの中で、判断や活動についてはいちいち、「なぜ、そうするのか」「なぜ、そうしないのか」を考えて口にしてみてください。活動の価値だけでなく、リスクについても「この子だけだと思うから、この子がここに行ったら声をかけあおう」「口に入れたら危ないからしまおう」「気をつけようと思っていても、見ていない時はあるから、鍵をかけたかどうか声出し指差ししよう」など、「~だから、~する」「~だから、~はやめる(しない)」という文章で話をすることは、これまで「なんとなく」行動してきた保育士が理由を理解するきっかけにもなり、口にした本人も理由を再確認する機会になるからです。

 「保育は経験」と言われますが、経験というのは「なんとなく」や直感の話ではなく、「こういう時、こういう子どもは、こうだから、こうする」という「~だから、~する」の積み重ねです。流暢に説明できる必要はありませんし、言葉でうまく表現できないなら「実際にしてみせる」ことで保育は伝わります。でも、保育士の頭の中に「~だから、~する/しない」がないなら、それはプロの仕事ではないでしょう(逆に、言葉では流暢に説明できるのに、行動としてはできない保育士もいますが…)。

※一人担任の場合、フリーで補助をしている保育士や主任が話しあいに加わる、持ち上がりでない場合は前年の担任も加わるなどの方法が必要だと思います。4~5歳児クラスの場合は、「園の価値」と特に保護者にみなされがちな活動(発表や運動会の種目など)が多くなる一方、保育士の判断や行動ではなく、子どもそれぞれの個性や関係に起因するできごとも増えるため、主任や園長も検討、判断に加わるべきだと思います。

おまけのおまけ:クラスや園で話しあいをする時のコツ3つ

 クラスで話をする…、簡単なようで難しいことです。そこで、コツを。とにかく全員が「自分の考えたこと」を話すための方法です。職員会議でもなんでも使うことができます。

1)その集団(例:クラス)の中で、立場が一番下の人から自分の考えやアイディアを言う。

 年齢、職階、正規・非正規…、とにかく「立場が一番下の人から上の人、順番を決めて」と言えば、たいていの場合、すぐに決まります。これがこの社会の恐怖。つまり、「上の人」がなにかを言ったら(考えもせずに)「私もそう思います」と言えば済み、「下の人」は黙っているのが安全、という社会なのです。それであなたの園の保育は良くなりますか?
 慣れてきたら(お互いに言いやすくなったら)、順番を変えてもいいと思いますが、最初のうちは必ず「立場が一番下の人から話して」と。順番を変えても、「〇〇先生と同じです」はナシ。

2)他の人が話している時には、絶対に口をはさまない。

 「上の人」がしがちな行動です。「それって違わない?」「え~」…、それだけで「下の人」は言うのをやめてしまいます。「上の人」の支配欲は満たされるのかもしれませんが、それであなたの園の保育士は育ちますか?
 「口をはさむ」には、表情も含まれます。あからさまに「え~っ」な顔をしない、あきれた顔をしない、など。「上の人」たちは実にこれをするのですが、結局、そうやって人の話に口をはさんだり、表情で感情をあらわにしたりというのは、保護者の前でもしていることだと理解してください。それでは、保護者とのコミュニケーションもうまくいくはずがありません。「人の話は、おだやかな顔をして最後まで聞く」トレーニングです。

3)「私/僕は~と思います」という文章で話す。

 「~するのが当然」「~しなきゃおかしい」といった文章で話すと、まわりは自分の意見を言いにくくなります。ですから、「私/僕は~だと思います」「私/僕だったら~すると思います」という文章で。日本語は主語を省いて話しがちですが、自分の言っていることに責任を持つという意味でも「私は」「僕は」は大切です。
 もうひとつ、「私/僕だったら~と思う」は、意見を求められた時の答えとして相手に押しつけない姿勢を示す方法にもなります。「〇〇先生、~についてどうしたらいいと思う?」に対して「え、~するに決まっているじゃない?」と答えると、押しつけがましくなり、あとで「〇〇先生が、『~に決まってる』って言ったから」とも言われかねません。でも、「う~ん、私だったらこうするかな…」と言えば、質問に対して距離をおけるのです。


 園やクラスの中で「話す」ポイントについては、拙著『子どもの「命」の守り方』(エイデル研究所)の162ページ以降も参考にしてください。



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